僕は心が本当にあるのかどうか疑っています。
七話は唯一のオリジナル!八話は原作中、最もヘヴィーなエピソード、ふたつの高いハードルに挑んだ、豪腕作家・前田司郎に聞く!
――唯一のオリジナルを手がけることになった経緯とその時感じた思いを教えてください。
詳しい経緯は聞いてないのですが、筒井先生が老人もので一本オリジナルをとおっしゃって、プロデューサーの方が、老人ものなら前田に書かせようと、思ってくれたようです。
僕が聞いたときは、老人が主役のドラマを何本か書いていたので『また老人かあ』と思いました。
――原作のどこに魅力を感じましたか?
やはり七瀬が心理を読む件の描写です。普段から他人の心はどうなっているのだろう?本当に自分と同じようになっているのだろうか?と疑問に思っていたので、筒井先生の解釈を読めて面白かったです。
――オリジナルの他『亡母渇仰』を担当するに至ったいきさつも教えてください。
これは面白くない答えなのですが、それが残っていたからです。そして難しいのが残ったなあと思いました。――七話、八話、それぞれでトライしたことを教えてください。
両方ともですが、相手の心が見えるセリフが、ただのその時の心情の説明になりがちなので、そうならないように心がけました。それから、七瀬が第三者の立場から当事者になっていく感じを『亡母渇仰』では意識しました。――二作とも、心を読むこと、心を読む状態などに前田さんの深い考察が感じられました。作劇における相手の心が読めるという設定についてどうお考えになりますか?
また、前田さん個人として、人の心について考えることを教えてください。
原作では心を読むということが、ただ独り言が聞こえるだけではなく、もっとビジュアル的であったり、言葉のようにシンプルな記号ではないもので表現されていたりしました。シナリオにすると、ただ独り言が漏れちゃってるだけという感じになりやすいと思うのです。
僕がオリジナルで心を読むという設定を使うとしたら、心の声が見えるというより、相手の感じている心を感じられるというような風にしたと思います。
例えば、心を読めるのであれば日本語を話さない人や、もしかすると犬や猫、果ては木や草の心も読めるはずです。
なので、相手が心でつぶやいている声が聞こえるというのはなんか変な気がします。
原作の小説ではそこのところが、大変たくみに表現されていました。
それをどうにかシナリオに出来ないかと、色々考えた次第です。
僕は心が本当にあるのかどうか疑っています。心の定義の仕方によってあったり無かったりすると思います。
心とは一体なんだろうと考えていくと、結局答えが見つからないのです。
――七話では脚本家のメンタリティーが書かれていますが、ご自身を創作に駆り立てるものは何ですか?
七話の主人公に僕自身を重ねました。老いた自分の姿を想像して書いたのです。七話を見ていただくのが良いかと思います。
――最近、前田さんの作品で映像化されるものが続いていますが映像だからやれることは何だとお考えになりますか?
映像に出来て、芝居に出来ないことの大きなことは編集だと思います。――視聴者の方に、七話、八話のここを見逃さないで!というところをアピールしてください。
僕もまだ見ていないのでわからないですが、七瀬という女性を通して個性とか人格とか心とかそういうことを考えて書きました。それを演出家の方や、木南さんはじめ、俳優の皆さんがどのように、映像にするのか楽しみです。――木南さんについて何か一言。
かわいい――七話のラストの七瀬の状態はどうやって思いついたものですか?
まあ、ああいう状態になったら、普通の女の子とは少し違う人生を歩んできた七瀬でもああなるだろうなあ、と思って書きました[プロフィール]
前田司郎 Shiro Maeda1977年生まれ。劇作家、演出家、俳優、小説家。劇団五反田団主宰。
劇作家としては岸田國士戯曲賞、小説家としては、三島由紀夫賞を受賞している。
小説『大木家の楽しい旅行 新婚地獄篇』、戯曲『生きてるものはいないのか』は映画化された。
『大木家~』は脚本も担当。テレビドラマの脚本に『迷子』がある。